グレタ・ガーウィグ『レディ・バード』を見て
異国に住む私は故郷・東京に何を思うのだろう?
家族?友達?恋人?(または元恋人?元友達?)
それとも母校?
過去と折り合いをつけることは難しいと最近つくづく思う。
自分の身の回りに起きた過去の出来事は、時々私を苦しめ、または私を赤面させ、そして私は過去に起きたことを否定までしてしまう。
あの苦い恋愛の経験。
あの時、ああしてこうして彼と付き合ってたら。
バラ色の生活が待っていたのに。
私の母校。
あの高校に通っていなかったらこんなに世間体を気にせずに生きていけたんじゃないか。
あの時もっとイケイケだったら。
もっと刺激的な生活が待っていたかも。
現在の私は過去の私のアップデート版だと思っているけど
過去の私がベースになっている限り、
現在の私に満足することはできない
現状で満足することはあんまり良くないと思っているけど
過去に満足できないこのダサい感じ?
レディ・バードはニューヨークに出て、「レディ・バード」の名前を捨てて本名を名乗るようになる。出身はサンフランシスコだと嘘はつくけど。
この、ありのままの自分を受け入れるという過程が少女(少年)が大人になるための通過儀礼だ。
思い出と折り合いをつけること、それはありのままの自分を受け入れること
あの時のダサい自分、結ばれなかった彼、私が発した言葉たち、
全て綺麗にラッピングして今の自分にプレゼントしてあげたいよ
ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』を見て
人を好きになる基準ってなんだろう?
人だけじゃない
何かを好きになる基準ってなんだろう?
私にとって。その他の人間にとって。
人間には他の動物と違って言葉を使うという特権が与えられているけど、
言葉なしでも恋愛はできる?
言葉によって定義された「好き」の理由を排しても、そのものを「好き」で居られる?
私は幼少期を思い出す。
あの重い百科事典をワクワクしながら開いたあの瞬間
いつも開くページは「妖怪」のページ。
いつも私を出迎えるのは「百目小僧」。
なんで好きかは分からなかったけど、
確かに私は好きだったのだ
百目小僧が。
あの「好き」の種類は
惹かれるという言葉の方がしっくり来るかもしれない。
監督自身が言ったように、
愛の形、「好き」の形は、水のように不定形
そしてこの映画は
言葉なしでもお互いを理解できる可能性がある
という希望を与えてくれる
これは今異国の地に住んでいる私にとって
これ以上ない励ましであり
言葉を学びながらも
言葉なしで人とどう理解し合えるのかを学ぶ、
というこのコミュニケーションにおけるパラドックスを
正当化してくれたように思う
不幸中の幸いとかいうアンハッピーな恋愛
恋愛において不幸せになりがちな人
それが私なのだが
少しでも相手の好意が見えると
すぐに舞い上がり
たちまち私も好きになる
そんでその好きになり方が一途すぎて
自分がそれに酔ってしまう
相手に引かれるとかそういうのではなく
(他人のことなので真相は闇に包まれている、が)
そんな自分がひどくがんじがらめで
窮屈な「恋愛」という枠組みで苦悶する
醜い人間にしか思えなくなる
恋愛しているのは自分の女性の部分なのに
自分を「人類」として捉えてしまう
このちぐはぐさ
が、なんとも奇妙で
私事に思えないくらい「普通ではない」ことすぎて
嫌だ
そして、素敵な恋愛がしたいと思うものの
素敵な恋愛とか誰がしてるのか分からないし
そんなの社会で決められたことだし
そんな社会は私含め有象無象でできているのだし
信用ならない概念だよなあ
素敵な恋愛って。
結局相手によって満たされるんじゃなくて
自給自足型生活が一番安定しているよな
とまた気づいて
恋愛しなくなる
自分の中身をエンハンスすることに余念が無くなる
私にとってそれは勉強、読書
そう、ただのガリ勉。
高学歴女子の性。
高校生の時からこのパターン。
今年23歳の私に訪れてほしき変化
それは恋愛をめぐる変化